- 2005年7月28日 23:17
- active in disaster:防災と災害
先週、オカサカの田舎の近くである長野県岡谷市に防災講演に行った。250人のオーディエンスがいる中、中越での話をはじめとして日常防災の話でしめくくった。その講座のエンディングの一節。
災害時の問題とは、ただ「命が助かればいい」という問題ではない。そこに文化が、産業が、人間関係が復興しなければ、仮に住民の命が助かったとしてもその町は確実に死んでいく。
あなたが災害時に死んではいけないのは、あなたが誰かの命を救う1人であって、あなたの中に、その後の復旧を支える産業や文化に関する記憶と、智恵がつまっているからです。
その記憶や智恵は、お金やモノで代替はできません。ぜひ、自分のまちの多くの人の力を、集約する機会を増やして、効率よく、まちのために注力できる体制、雰囲気、しくみをもって日ごろの「防災」としてください。
ちゃんと「死んではいけない理由」になっているだろうか?
防災啓発をしていると、年配者の中に「あたしは地震で死んでもいいさ」という人がある。それを言われると防災の話をするモチベーションがとたんに下がる。「それを言われてはおしまいだ。」と思っていままでその理由をアンサーすることから逃げていたような気がする。ただ、最近特にこの「死んでもいいさ」に対して、無性にアンサーを出したくなって、それなりによく考えた。そしてふと、自衛隊上がりのウチの親父がよく戦争をテーマに話すときに言っていたことを思い出した。
「戦争をしてはいけないのは、人の命が失われるからじゃないんだ。弾が飛んできて打たれたら俺は痛いし、地雷を踏んで足が飛んだらもっと痛いし生活に困る。死んだら周りの気力がなくなって何十人という人に迷惑をかけるだろ。だからだめなんだ。あれは。」
--これは、死ぬことや死人そのものが問題ではなく、「ヒト」という貴重な財産が失われることによって残された人間がマイナスの影響を受ける、という論理だ。この親父の考え方は、他の人が「死ぬこと」や「本人」の問題をとりだたすのに対して、死んだあとの家族や地域を気にするという、現実的で理にかなった考え方だ。自分の家族が言ったにもかかわらず、意外と気づかなかった。よく考えれば、すごくあたり前のことなのに…。
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